2003年4月23日
先週の金曜日、時間の余裕を作って山へ行った。山へ行きたいと思いながらなかなか行けず、久しぶりの山歩きだった。行った場所は富士見台1739m。恵那山トンネルの真上に当たる。中津川から神坂(みさか)峠まで車で上がり、そこからはすぐだ。
神坂峠の車道は岐阜・長野県境で東西方向になっている。南には恵那山に続く尾根があり、登山道が登っていく。北側にも尾根があり富士見台へと続くのだが、尾根の東側に車道があり富士見台公園に至ると書いてある。尾根の西側には登山道があり神坂峠史跡まで100mと書いてある。車を車道の分岐点に置いて、神坂峠への登山道を歩いた。最初は恵那山へ向かうつもりだったのだが、雪がかなり見える。恵那山へは南へ向かう、つまり山の北側の斜面を歩くわけで、かなり雪があることが予想される。今回は雪道を走破できるような装備(主に靴だが)では来なかったので逆を向いたわけだ。ただし神坂峠から北側のことはわからない。とりあえず「神坂峠100m」の標識に従って歩き出した。
後でわかったことだが、私が車を止めた場所から「富士見台公園」へ向かう車道を下るとそこに駐車場がある。ところが駐車場があることがアナウンスされていないので誰も駐車場に車を止めていないのだ。そして駐車場の向かいが神坂峠の史跡である。私は遠回りをして登山道を歩いたが、史跡のすぐ下が車道と駐車場であることに気が付かなかった。
神坂峠は古代から東山道の難所であった。
ここを通った人の中で著名なのは古くは日本の侵略の原点とも言うべき日本武尊、国防の原点とも言うべき防人達、中世では最澄、近代ではウォルター・ウエストンである。ウエストンは登山家として有名だが、本職は聖公会の司祭である。
その原の山をいくかとなげくまに君も我が身もさかり過ぎ行く (大伴家持)
ちはやふる かみのみさかにぬさまつり いわういのちは おもちちのため (防人の歌)
史跡になっているのは、縄文〜弥生式土器や矢じり、ぬさなどが出土し祭祀が行われていたと考えられるからだろう。
史跡からなおも登山道を進んでいくと、しばらく登りが続く。左手に恵那山が大きい。
そのうちにほとんど上下のない道になる。ところどころ残雪があり、下手をすると30cmぐらい踏み抜いてしまう。やがて広い笹原に出る。眺めはよいが風をまともに受ける。向こうから男性が一人下山してくるのが見えた。ところがすれ違わない。おかしいと思って見回すと右手の下の方に山小屋が見える。男性が山小屋方面に下っているのが見えた。なおもなだらかな道を登っていくと避難小屋が2棟あった。神坂小屋である。とてもきれいな小屋で土足禁止。現在の建物は3代目で初代の建物には島崎藤村の書で「山小屋」という看板が掛かっていて、それを復元したものが室内に掛けてあった。トイレは有料だったが4月いっぱいまで閉鎖。鍵が掛けてあった。
この小屋から残雪を少し登ると頂上につく。頂上は360°の絶景だった。
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しばらく景色を眺め下山。今度は先の山小屋へ下る。万岳荘。ここも冬季は閉鎖、トイレは一箇所使えるようになっていた。ここから車道を歩くとほんのわずかな距離で車の所へ着いた。この時に、車を置いた所のすぐ下に駐車場があることに気が付いたのだ。駐車場付近にはふきのとうがあった。ここから園原まで8キロほど、園原は中央高速のインターチェンジ、またスキー場の名前としてしか知らなかったのだが、上にも書いた家持の歌にも出てくるように、古代からよく知られた地だということは家に帰ってから知った次第である。 |
| 帰りは園原へ出て国道153号線をのんびり走ろうと思ったら、神坂峠から200mほど走った所で路面が雪に覆われて、他の車が通った形跡もなくなってしまった。この車はまだチェーンも買っていない。先へ進むことを断念し、峠までバックして、元来た道を降りることにした。林の中に狭い水路がいっぱいの水を激しく押し流していた。霧ヶ原の集落ではその水を田に引き入れて、田植えに備えていた。 | |
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