身辺雑多 その73

思いつき

2002年12月23日

 今日「新アララギ」1月号が届いた。まだちゃんと読んではいないのだが、新アララギ二〇〇二年の歌というコーナーに「この一年の社会詠(梅原猛氏への反論)」と題する大井力氏の文章が目に留まった。
 梅原猛氏は著名な哲学者・評論家だが、どうもいい加減なことをいうことがある。何も知らない人は彼の言葉に騙されてしまうかもしれないが、ちょっとその道をかじった人ならすぐにわかるようなことである。
 例えば、「神が万物を支配するように人間に命じたと教える一神教(つまりキリスト教を指している)が自然破壊の原動力となっている」というようなことを言っている。確かに創世記には「生めよ増えよ・・・支配せよ」と書いてあるが、その支配とはどういう意味か。例えばホテルの支配人を考えてみたらよい。支配人は自分がそこで贅沢に暮らすためにホテルを支配するわけではない。ホテルに来る客をよりよくもてなすために支配するのだ。人間が自然を支配するとは、神の創られた調和ある世界をよく維持することを託されたのだ。人間だけに都合いいように勝手な支配をすることは神が許したことではない。その後堕落した人間が始めたことなのである。そのようなことは、ちゃんと聖書を学ぶ者なら誰でも知っていることであるが、梅原氏は支配とは自分のしたい放題にすることであると思い込んで、それを神が承認しているとキリスト教は教えていると決めつけているのだ。その上に立って、キリスト教は自然破壊の宗教だと攻撃するのである。それなら、非キリスト教国である日本が世界へ出かけていって世界中の森林を荒らし、海洋資源を食い尽くしていることをどう見るのか。多神教は自然と調和するというのは、彼の思い過ごしであって、今日に関して言えば、自分に都合の良い神々を次々に作り出す無節操さが自然破壊を正当化する原動力となったであろう。
 話を本題に戻そう。大井氏によれば、梅原氏は中国の詩経と万葉集を対比して、万葉集には社会詩、政治詩が欠如している。その欠如は今日の短詩型にも受け継がれている。そして私性の告白が中心だ。これでは世界に通用する真の日本文学の創造は不可だ。短詩型では社会的思想を表現するには短歌はあまりにも短い・・・。というような批判を展開しているということだ。
 大井氏はこの論が乱暴であると指摘した上で、この一年間に「新アララギ」誌上に発表された社会詠を、同時多発テロ、リストラ・経済危機、政治・汚職・外交、農政・食糧問題・・・といったジャンルごとに分類し作品を列挙している。それらを読むと、草の根の民衆が社会的、政治的な関心を持ちながら生活し、かつ表現をしているということがはっきりわかるのだ。梅原氏の現代短歌をどのくらい読んだのかが疑われる。俵万智の「サラダ記念日」以来、それに影響を受けた作品がたくさんあることは事実だろう。しかし、「サラダ記念日」が現代短歌のすべてだと決めたら間違いだが、梅原氏もそうした間違いに陥ったのだろうか。彼の聖書理解の欠陥と共通性があるように思える。
 それにしても抽象論を振り回さずに、具体的な作品を示すことによって梅原氏の誤りを指摘した大井氏はやはりアララギの人なのだと思う。作品を並べるというだけのことだが、社会問題を扱った作品がズラリと並んでいるその事実の前に哲学者梅原氏の思考は空論であることが説得力をもって証明されている。


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